A Long Long Day

2年前に此処パンコール島で出会った陽気なノルウェー人の
親父アクセル。御歳68歳。奥方はマレー人でこれまた陽気で
ある。今回もその夫妻と旅行の日程が偶然重なり、久々の再
会を喜び、一緒に年明けのカウントダウンを過ごした。

「グッモーニンッ!! スキヤキー!!
 グッモーニンッ!! ツカサー!!」
今朝も皆が朝食に出て来始める早い時間に、レストランのす
ぐ前に面しているボクのシャレーのドアを叩く彼の声で目が
覚め、仕方無しに起きてゆくと、白髭をたくわえた顎をポリ
ポリと掻きながら、いたずらっ子の笑みを浮かべて、その大
きな体をすくめるフリをする彼の姿が其処にあった。

彼と同じテーブルにつき、二人でコーヒーを飲みながらタバ
コを燻らせ、彼のいつもの冗談混じりの世間話に付き合う事
数分。いつも陽気な彼の表情がにわかに曇りはじめた次の瞬
間、咳をしてむせこんだ様子の彼。
彼の口に一度運ばれたコーヒーが目の前のテーブルを、そし
て彼のズボンを次々に濡らしてゆく。この時点でボクはまだ
彼のいつもの冗談か、または単に誤って気管に入れてしまっ
たのだとしか思わず、
「アクセル、大丈夫か?」と、紙ナプキンでテーブルを拭き
ながら笑顔で彼に問いかけていたのだけれど、次の瞬間、体
を震わせながら、それでも席を立とうとする彼を見た時、彼
の身体にただ事ならぬ事態が起こっている事に気づき、慌て
て自分より背丈も身幅も遥かに大きな彼の身体を支え、周り
の人に助けを求めた。

そこから救急車が来る迄、なんと遅いことか。
島だけに仕方がないのだろうけれど、そこにいる誰もが
苛立ちを隠せない中、ホテルの車椅子に乗せられ、左半
身の自由を奪われた彼の手をひたすらさする彼の奥方の
隣でボクは、意識が朦朧とする彼の頭がなるべく動かな
いように、両方の手のひらで紙風船を持つように優しく、
彼の頭を支え続けた。
この時点でボクは、彼が脳梗塞もしくは脳内出血、脳溢
血の何れかである事を、子供の頃にクモ膜下出血で父親
を亡くした経験と、テレビやインターネットを通し見聞
きした知識から、だいたいの見当はついていたので、な
るべく彼の頭を動かさないように細心の注意をはらった。

30分程してようやく到着した救急車の担架に皆で彼を運
び、彼と彼の奥方が乗る救急車を見送ってすぐ、部屋に
戻りジーンズとシャツに着替え、ホテルのパパと二人で
バイクにまたがり、船着き場へ向かった。

自分達が船着き場についてすぐに、一旦島の病院に立ち
寄ったらしい救急車が到着。そこから救急用の小型フェ
リーが本土に向けて出るのだけれど、フェリーに乗せよ
うとする時にここでも人手が足りず、ボクが彼の頭側の
方の担架を持ち、段差の激しい岸壁から船内へと、慎重
に彼を運び入れた。

島から一番近いマリーナへ向け出港した救急用のフェリー
の後を追うように、一般用のフェリーに乗り込み、本土側
の港町ルムッ(所要時間30分)へ向かい、ホテルのパパが島
を離れた時に使用している車で、搬送先の病院がある隣町
のスリ・マンジュンまで車を飛ばす事20分。
正月早々から運び込まれる急患でごったがえす救急搬送の
ドアを2つ開けたその場所に、担架に乗せられ鼻にチュー
ブを入れられたアクセルと、彼の手を握るマレー人の奥方
シダ、それとホテルから此処までの間ずっと彼らに付き添
っていた同じホテルの宿泊客でイングランド人のジョー夫
人の姿があった。

しばらくして大部屋の病室へ移送されたのだけれど、この
常夏の国にあって、病室内は天井のファンのみ。
しかも室内は必ずしも綺麗とは言い難く、さながら戦争映
画に出てくる野戦病院の雰囲気も否めない。そんな病室内
の、彼の身体には小さすぎるベッドの上で無意識に体を動
かそうとする彼の体を押さえ付けては、彼に
「アクセル、大丈夫、大丈夫。
 だから頭を動かすな。」
と、耳元でささやく。時折、彼が目を開き、ボクと目が合
った時に、ほんの少しだけれど反応を見せてくれたり、彼
の足の指先を指で叩くと、必ず二度親指をピクピクと動か
して返事をしてくれるのが嬉しい反面、全く動かなくなっ
た左半身の何処をさすってもつねっても反応を見せてくれ
ない彼の姿と、麻痺した唇の左端から漏れる彼の息が、ボ
クらが置かれた今この状態が必ずしも平穏でない事と、つ
い今朝まであたりまえのように口にしていた未来が奪われ
た事が悔しくてならない。

付き添いのみんなで彼の大きな身体から衣類を脱がせ、紙お
むつを彼の下半身に巻く時、思わず涙が出そうになったのだ
けれど、彼の奥方を始めその場に居る誰もがボクと同じであ
ろうその気持ちをこらえているのだから、今は哀しみに暮れ
ている場合ではない。自分に出来る事をするだけだ。彼を見
守るその輪を抜け病室を出て一人、病院内の売店で必要そう
な物を買い揃え病室に戻った。

午後3時過ぎ。設備の整ったスペシャル・ホスピタルがある
イボーへ移送する事が決まり、島から此処までの緊急搬送代
や診察・治療費などの諸々の支払い(マレーシア国民のIDカー
ドを持っていない我々外国人は高い)を済ませ、此処から車で
1時間半程、内陸部に入ったイボーまで救急車を追いかけるよ
うに移動。
二軒のスペシャル・ホスピタルを訪ね、受付で彼のパスポート
のコピーと旅行保険のコピーそれぞれを提示しながら掛け合っ
てみたのだけれど、どちらも正月休みで専門のドクターが不在
なのと、保険会社の提携病院ではないため、治療費や入院費な
どの支払いにおいてなにかと面倒らしく断念。
スペシャル・ホスピタルを後にし、彼の取り敢えずの再移送先
であるイポーの州立病院に向かい、其処で既に頭部のCTスキャ
ンを撮り終え、日本のそれとは程遠い衛生管理状態の集中治療
室で眠る彼と彼の奥方に合流し、話し合った結果、再びスリ・
マンジュンの病院へ戻る事となった。
税金が高いその分、社会福祉や医療システムが充実している彼
の母国ノルウェーとの差は計り知れず、異国の地で片道一時間
半の道を再び引き返すアクセルが不憫でならない。

午後8時過ぎ。再び戻ってきたスリ・マンジュンで、救急車で
先に病院へ着いていた奥方と合流し、皆で遅い夕食を摂り、今
からでは島に帰るフェリーもない為、島から出てきたメンバー
全員で、ホテルのパパが所有するスリ・マンジュンにある豪邸
に宿泊。その豪華さを讃えてあげたいのだけれど、ただでさえ
寝不足に加え、朝からの目まぐるしい展開に、ボクの頭越しに
飛び交う英語はもちろんの事、慣れ親しんだマレー語さえ一切
理解出来なくなりそうなくらいに、ボクの脳ミソはすでに病院
に居るアクセル以上に腫れていそうで、案内されたゲストルー
ムのベッドに溶け込でゆきそうな感覚に何度もみまわれる中、
長い、本当に長い今日という日の始まりだったアクセルの、
彼のイタズラっぽい笑顔と仕草が、開けることもおっくうな
瞼の裏側で、浮かんでは消えを繰り返す_________。