基本忘れるべからず

シンガーソングライター。
肩書きだけは聞こえがいいかもしれないけれど、実はアナタにだって歌は創れる。いやいや、嘘じゃないってば。もっと正確に言うと、作曲なんてものは名作か駄作かは別にしても、自分の声または自分が発する何らかの音の違いを体のどこかで認識出来さえすれば誰にでも出来る。え? 楽器が弾けなきゃ出来ないんじゃないの? とお思いのアナタ。そりゃあピアノかギターが弾ける方が弾けないより多少便利というだけの話であって、ピアノに至っては片手でドレミファソラシドの白鍵とその間の黒鍵さえ弾ければ十分。要するにコード(和音)などは本来の作曲には必要がない。と言っても実際にはメロディを作りながら、同時にコードを鳴らす方が自身で"曲のイメージ"を感じ易いし、次のメロディも浮かびやすくなる時もある。がしかし、そのコードのせいでメロディの自由度が奪われる時も多分にある。

本来ならば、コード付けはアレンジ(編曲)の部分であり、編曲というものは、出来上がったメロディに対し、その作品をどのように色付けるかでそのメロディの持つポテンシャルを最大限に引き出してあげるかの作業であり、これはこれで結構責任重大な役割で、その為にアレンジャー(編曲者)という職業が作曲家・作詞家と同様、分離独立している。

作詞に関しては、韻を踏んだり、メロディラインと結びついた時に生理的に余りにも不自然だったりする箇所の変更時に、センスの良し悪しは別としても、代わりに補えるだけの"言葉"を量的に知っておかなければならない。しかも、そもそも聴き手に何を訴えたいかを失わせずに、此処の言葉を変えたら其処の言葉の効力が消えてしまう、だったらこちらをこー変えて、あらら、そしたらあちらの韻とのバランスが崩れた、などというまるで化学反応の連発で、国語と化学を同時にしている感覚で、しかも結局最後には赤の他人に「センスねー。」などと無責任な批評をされてしまうのでお薦めはしない。

で、やっとこさ話が作曲に戻るわけで、作曲なんぞは鼻歌で良い、いや、鼻歌が良い。拍子(リズム)が体で取れれば、意外と誰にでもメロディは作れるのだ。そんな馬鹿な、と思うアナタ。学生時代に学校で習った国語の詩でも、インターネットで見つけた他人の詩でもいいから、適当に音程をつけて唄ってごらん。意外と出来たりする。それでも出来ないのはその詩が歌に不向きなだけで、けしてアナタが悪いわけじゃない。それくらい作曲というのは、規則こそあれど、時にその規則の重要性を無視できるほどの自由度が其処に存在するわけなのだよ。さぁ、今日からアナタも作曲家だ。

と、ここまでは長い長い前振り。冒頭からここまで読むのに費やした時間を返せというアナタ。もう一度始めから、今度は沢田研二ジュリーの声で読んでごらん。どこかでピッタリはまる場所があるから。その間に、ボクはボクで先を行く、ぢゃ。

今朝、来月のライブに向けた準備をしている最中に、それとはまったく関係の無い曲と詞が同時に降ってくるという、自身からすれば至って日常的な現象に、「ほいほい。」などと空返事をしながらパソコンのソフトをそれまでのとは別のに切り替えた後、降ってきたメロディと言葉を口ずさんでは、詞だけを書き留めていたのだよ。時々、ギターを抱えていろんなコードを当て嵌めたりしながら、おーおーこれよりこっちの方がいいのー、なんてやってたわけ。
しかし、降ってくる量が土砂降りの時もあればにわか雨の時もあり、どうやら今回は後者だったらしく、だったらその雨が行き過ぎるまでの間に、一気に書いてしまえ! という勢いを、技法や知識が途中で検査員のように割り込んで来て止めてしまう。そーこーしているうちに、ワンコーラス目のサビ途中辺りでその通り雨もピタッと止んで、見上げれば光も射さず雨も降らず、ただの曇り空。

で、言葉を書き連ねたファイルを当然ながら保存しますわね。そして、元のライブの準備に戻りますわね。途中で気分転換にインターネットのニュースなんぞ読みますわね。時々、可愛いおねーちゃんの画像なんぞにウヒョッ♪と心躍りますわね。しばらくして、あっ、さっきの書きかけの新曲をもう一度唄ってみようと、作詞したファイルを開けますわね。メロディ忘れてますわね。ギターを弾いてせめて唄い出しだけでも思い出そうとしますわね。思い出せませんわね。ガッカリしてフォルダにそのファイルを戻しますわね。

___その『書きかけの新曲』というフォルダには、同じくメロディに去られ、取り残された作詞ファイルがそれはそれは数多くあり、その中に例えばアナタへの想いを書いた作品や、世に言う名曲があったとしても、今の時点では、ここの戯れ言ブログと同様、言葉のカケラの羅列でしかない。

作曲をする時は譜面に残すか、または録音しましょう。基本中の基本です___。