真面目な長文を挿絵で誤魔化してみるの巻

「キミとデートするにはどうしたらいいの?」
「イスラム教に改宗してくれればいいわよ。」
「するする今する。でもオイラ明日には元に戻ってるかもよ。」
「あら、イスラムには誰でも入れるけれど、そこからは誰も出られないわよウフッ♪」

トゥドゥン(ヒジャブ)を頭に纏った彼女の微笑みの奥の、入り口だけが大きく口を開けたブラックホールに、酒を始め大好きなカツ丼や酢豚と切り離されてクルクルと吸い込まれてゆく自分を想像し、心ごと後ずさりした旅先の鄙びた町の食堂は今もまだあるのだろうか。

ここのところほぼ毎年行っているマレーシア・パンコール島の小さな村で、夜な夜な裏山から下りてくるイノシシの群れを家族親戚同様の者らと眺めながら、「あれをスティームボート(鍋料理)にしたら本当に旨いよー。肉が甘いんだよなー、ダメだ、ヨダレ出て来た。」などと言い、イノシシも豚の括りである為にさばく事さえ禁じられている仲間たちの失笑を買ってみたり、

イスラム教徒の観光客が島の海に捨て去ったゴミを仲間のビーチボーイらと拾い集めながら、「オメェらのアラーは一人だからこういうの見逃すかもしれんけどよ、日本は海に神在り山に神在り便所に神在りと云ってだな、八百万もの神が居るからこーゆーの許されねーのよ、解る?」と諭すボクは周りから「ツカサは時々気難しい。」などと煙たがられたりするが、ボクはボクで「日本人のそういう宗教観に基づく考えから、宗教の壁を越えて人間誰もが『清』と感じる行為に繋がっていたりもしてだな、例えば、自ら率先して便所掃除する者を皆褒めこそすれど、笑えないだろ?」と、身振り手振りを交えた拙いマレー語で反論し、結局は「やっぱり気難しい。」と笑われる始末。

もちろん、郷に入れば郷に従えの精神も持ち合わせているので、向こうでは時々はイスラム式の挨拶もするし、結婚式や葬式などに呼ばれる時には出来る限りそれに従う。調子の良いヤツと思われる方もいるだろうが、ボクからすれば相手が信仰するモノに対してそれを認めると同時に敬う気持ちからなのだよ。
人だって他人から見ればいろいろな者に見えるでしょ? 神様だって一緒だと思うのだよ。ある人から見ればそれがキリストに見え、またある人からはアラーに見え、天照大神に見え、お釈迦様に見え、ヒンドゥーの神々に見え、きりがないのでこの辺で。要するに人間の解釈の違いの数だけ神様の数も増える。アナタにはネコに見えているイヌがボクも好きです。その程度の話だ。程度ついでに言わせて貰えば、神様なんてのは人間からすればこの世で一番無責任な存在でしかない。目の前の人を蔑ろにして神様もへったくれもないのだよ。

要するにその程度の話で、「大義」の名の下に罪無き女性や子供たちや人質をレイプしたり殺したりするイスラム国を認めるわけにはいかないし、また一方で自分らに都合よく出来た「正義」の旗を一見格好良くバタバタなびかせている割に、何かとヒステリックに地面の蟻を叩きまくるユダヤもいけ好かない。
かといって、太古より八百万の神に育まれた「多様性を受け入れる」特性を持つ日本人には、仲裁に入る力すら持たされてないという、なんとも情けないお話なのだけれども、ボクは政治家でもなんでもないので、今まで通りブツクサ言いながらも、宗教も価値観も違う目の前の人たちが少しでも笑い合えるようにドタバタするに違いない。
神様の次に無責任な存在として___。

日記