フーテンの背中を押してくれた人

ボクが初めて海外独り旅に出たのは30歳になる少し前。
それまで音楽ばかりに僅かな稼ぎと脳みそのほとんどを使い果たしていたボクの海外放浪デビューは、他の人たちに比べ遅いものだったのだよ。

そんな遅い海外放浪デビューの地に選んだ当時のベトナムはまだ入国許可証、所謂ビザが必要で、海外旅行のいろはも知らないボクはビザを取る手続きを学ぶ為に、知人に連れられベトナムと取引のある会社に行った。
渋谷のマンションの一室。その部屋の質素な事務机の前で、その鼻からズリ落ちそうな眼鏡を上げながら、「おーおー、よく来たね。はじめまして、Iです。」と、満面の笑顔でボクたちを迎え入れてくれた社長。それがI氏との最初の出逢いだった。

I氏のお陰で、ベトナム滞在の為のビザも取れ、というかちょっとした手違いで、当時のベトナムの観光ビザでは立ち入れない場所にも立ち入れるというビジネス・ビザを手に入れた有り難みも、今ひとつピンとこないどころか、不安ばかりが先立つボクにI氏はやっぱり満面の笑顔で「大丈夫だよ。ベトナムの飯がもし口に合わなかったら、フランスパンとスルメを囓ってりゃあなんとかなるし。旨いんだよフランスパンとスルメ、ハハハ。」と励ましてくれた時の事を今でも覚えている。

それから、間もなくしてベトナム→タイ→マレーシア→シンガポール→インドネシア→またシンガポール→またマレーシア→またタイと約3ヶ月間に及ぶ海外放浪の旅で、経験値をほんの少しだけ上げたボクは、帰国後、これまた遅い二輪免許を取得し、アメリカン・バイクのケツをドドンドドンと吹かしながら、よくI氏の会社や自宅に遊びに行くようになった。

I氏は元々、工業デザイン畑の人で、当時も衣類を始めたくさんのデザインから製作まで1人で手がけていて、その仕事を傍で見ながら、たくさんの事を遊びながら教えて貰った。印刷の版下の事。Tシャツの素材。衣類への染料プリントの色味。販促品の製作。そしてMacに至るまで。
現在のボクが音楽以外でしている仕事のノウハウのほとんどはI氏から教えて貰ったと言っても過言ではない。

ボクの1度目の結婚の仲人と証人にもなってくれたI氏との付き合いは、ボクの人生がダメダメになった時も、少しだけ報われた時も、やっぱり変わらない笑顔と少しだけ北関東訛りの混じった口調で「大丈夫さ大丈夫! お互い痛風で足が痛ぇけどさ」と、ボクを何かと気に掛けてくれた。

そんなI氏が今年2月に亡くなって以来、長女(4歳)や双子女子(もうすぐ1歳)の子育てに忙殺される日々の中、まだお線香も上げに行っていない。いや、子育てのせいにしているけれど、実際は未だに彼が居なくなった事を認めたくないのかもしれない。
いつでも電話をすれば「いやーこっちも連絡しよーと思ってさー、昨日ツカサの事話してたんだよ」という声が今も聞けそうな気がして、奥方にさえ連絡が出来ていない。

プロフェッショナルな仕事のノウハウを、畑の違うボクに簡単に、こちらになんのプレッシャーも感じさせず、決めなきゃいけないトコロだけは「ここはバチッ!とさ、決めなきゃいけないんだ、ここだけは、イシシシ(笑)」と笑顔で教え続けてくれたI氏がもういない事。
それはまるで、自分自身の半分ほどがゴッソリ欠けたような、ここでは書ききれない想いを募らせながら、ボク自身がこれから歩んでゆく道の先、優しい灯りを灯してくれていた街灯の消えたその道の先を不安げに眺めるボクの後頭部の辺りでその声はする。

「大丈夫大丈夫。なんとかなるって」______。

日記