ええ、たしかにサボッてましたが何か?

約数ヶ月ぶりの更新なのだけれど、この数ヶ月の間に、まーいろいろとあったりなかったり。

新型コロナの波が寄せたり返したりする世の中の隙間で、ただでさえ忘れやすくなった自身の脳みそが記憶している事柄を順番を追ってツラツラツラ〜ッと書き殴ってみるとだね。

6月、かねてから役所に提出していた娘の保育園の転園希望(それまでの保育園は3歳までしか預かって貰えない為)がいきなり現実のものとなり、今までの保育園と違うシステムのそれに向けてバタバタと準備をし、新しい保育園に慣れない娘をたくさんの言葉で諭したりなだめたり、今までよりも倍以上遠くなったお迎えの道を、あー痛風出たらこの距離迎えに行くの絶対無理と不安になったり、娘と二人、手を繋いで帰るその道すがら、時折、遠回りをして前の保育園に寄り道したり、公園に寄って遊びながらまた諭したり。

6月末は、新型コロナでただでさえ人々の心が分断されたり必要以上にピリついたりする中、今年で30年目になる沖縄・伊平屋島に。諸般の事情から今回は家族だけでの渡航となり、前もって「娘はまだ2歳だから、旅行先で熱出すよ。その時は宜しくね。」と島の家族親戚同然の友人らに言っておいたのだけれど、案の定、ボクの誕生日に40度を越える高熱を出し、島の診療所の前に横付けした車の窓越しに、防護服を着た医師や看護師に診察をして貰い、これまた迷惑をかけた次第なわけで。結果、新型コロナではなかったのだけれど、高熱は高熱なわけで、フゥフゥとしんどそうな娘の表情も含め、様々な感情でいっぱいいっぱいになるその眉間に深い皺が寄りがちなボクを、宿の家族や今回合流してくれた友人らがサプライズで祝ってくれたバースデーソングに泣きそうになったけれど、こんなオヤジが涙してもちっとも可愛くないので戯けて誤魔化したり、娘の熱が下がってからは、こんなご時世なのに、毎晩ゆんたくに呼んでくれる島の仲間たちの気持ちが嬉しかったり。

で、島から東京に戻ってすぐの7月の七夕の日。
朝までまだまだ遠い深夜未明から息苦しさと40度の高熱に見舞われ、とうとう「発熱相談センター」に電話する事となり、救急車を呼ぶことを勧められたものの、近所迷惑にもなるし、なんとか朝まで我慢して自分の足で新型コロナ対応の病院の救急外来に向かい、隔離された診察室で生理食塩水を点滴をされながら様々な検査をし、診察台の上で毛布2枚かけられても寒気が止まらず、こんな真夏に寒くて死にそうなので部屋の冷房を切るか、解熱剤も投与してくれと頼みこんだり。
PCR検査の結果は二日後になるが、CTやMRIの所見から新型コロナではないでしょう、という医師の判断の下、熱も下がったので、左腕には常駐針痕から血が滲むガーゼと各種薬の入ったビニール袋、右手には持ち上げる気力もなくズルズルと引き摺るビニール傘という、どっからみても怪しい中毒者のような姿のままヨロヨロと病院から家路を辿り、家に帰れば帰ったで、ボクの発熱のせいで登園を見合わせざるを得なかった娘の相手にリモートワークどころではない家内の苦労があったりで、たとえ新型コロナでなくても、高熱ひとつで様々な対応をせねばならんこんな世の中、そりゃーみんなの心がピリピリするのも無理ないわ、とつくづく思った七夕の日の出来事。

自宅から車で数分の所で行われている『東京オリンピック』が何処か遠い地で行われている気分に浸っていた8月を経て。

丁度20年前の9月11日の夜。初ライブを終えたhenssimoメンバーたちと打ち上げ会場の居酒屋に向かう途中、なにやらアメリカで大変な事が起こったらしいというニュースを耳にしたあの夜から20年。
なんだかいろいろあり過ぎて、なんでこんなになっちゃったんだろーと当初に描いていたそれとはまったく違う自分自身の歩みを反省はすれど、反省したところでボサボサに伸びすぎて肩当たりで外側にクルンクルンに跳ね上がったこの癖毛が直毛に変わる事はまずないので、面白い事を考えながら、それをアナタに伝える事が出来る日、アナタとまた元気な顔で笑い合える日、そんな日が再び来る事を期待しながら、取り敢えず今日も娘の屁理屈に「それはそれ、これはこれ」と涼しい顔で臨みますね_____。