水紋

病院の洗面所。
車椅子の上から痴呆症の患者特有の虚ろな瞳で、ただただ蛍光灯の灯りに照らされた消毒液臭の充満するタイル張りのその空中を見ている祖母が映る鏡の前で、彼女の入れ歯を洗うボク。
二度目の骨折以来、自力歩行も困難な上、急速に呆けが進行し、「入院」という名目で実質病院に預かってもらっていた祖母の身の回りの世話をする為、仕事先に行く足で毎日病院に通っていたボクの弟の役目を、帰省した時だけ弟に代わってもらっていた。

毎日行くのには理由があり、痴呆症患者の場合、本人が勝手に動き回ったり突然暴力を振るい始める患者もいる事などから、祖母が居た病院では、ベッドに寝ている時も車椅子に座っている時もそのほとんどの時間を拘束具で拘束されている。食事の時や家族が見舞いに来た時だけ、家族の責任のもとにその拘束具が解かれる。夜遅くまで働いていた母に代わってボクら兄弟を育ててくれた祖母の事をよく知るボクら家族にとっては、祖母は暴力を振るった事などは1度も無く、また大腿骨を骨折している為、勝手に動き回る事も無いのに、規則という名のもとに十把一絡げで拘束されている祖母が不憫でならず、家族や親戚の誰もが面倒を見られない祖母を預かってくれている病院や日々世話をしてくれる看護師さんには感謝もあるけれど、「早ぉほどいてちょうだい。」と力無い瞳に涙を浮かべる祖母のその表情を見る度、「罪人じゃあるまいし。」と、心の中で舌打ちをしながら、さっさと拘束具を祖母の身体から引き剥がし、身体の自由と穏やかな表情を取り戻した祖母の為に、自分らが可能な限り一緒に居た。

祖母を抱えてベッドから車椅子に移した後、拘束具で擦れて赤くなっている腕や、ただでさえ乾燥気味の病室でカサカサになった祖母の額や頬などに保湿クリームを塗り込むボクと、その虚ろな瞳を閉じたり開いたりしながらも気持ちよさそうになすがままにされる祖母。「今日は違うお孫さんやね。もう一人のお孫さんも毎日来てくれて幸せやねぇ。」と隣のベッド脇で患者の検温をする看護師さんに「この子は一番下の子。」と自信たっぷりに説明する祖母。
「二人兄弟の長男やし、そもそも一番下とかないし。誰と間違ぉちょらーよ!?」と、保湿クリームを塗ったばかりの彼女の額をペチンと叩くと、「痛い! ツカサ!」と、さきほどまで虚ろだった瞳に一瞬だけかつての力強さを取り戻してこちらを睨む。どうやらずっと呆けているわけでもなく、少しの衝撃を与えると時折鮮明に記憶を取り戻す、まるで昔のブラウン管テレビだと、ボクら家族が笑う傍らで、祖母は一人再び何も映らなくなったその瞳を宙に漂わせている。端から見れば老人虐待にも取られかねないそれがボクら兄弟と祖母とのコミュニケーションだった。

力無く落とした視線の先にある病院食の一品一品を、まるで食べ物で遊ぶ幼子のように弱々しく握った箸で崩してゆくだけで一向に口に運ばず、かといってこちらがスプーンなどで口もとまで運んでもそっぽを向いて食べようとしない。ワゴンで食器の回収に来る病院スタッフに何度も頭を下げながら、祖母にゆっくりと夕食を摂らせた後、病室を出て車椅子を押して洗面所に行き、「歯磨きの時間や、入れ歯出しや。」というボクの言葉に、無言で口だけ大きく開ける祖母。「入れ歯ぐらい自分で取れるろうが。」と、再び彼女の額をペチンと叩くボクに、「そんなに何回も叩きなさんな!」と、またもや一瞬だけかつての祖母が顔を出しては、水溜まり程度の水面に出来た水紋のような早さで消えてゆく。

そして文頭で書いたような、水道水の流れる音だけが響く寂しいほど静かな洗面所で上下の入れ歯の洗浄を済ませ、そのふたつを再び惚けた表情を浮かべ続ける彼女に手渡そうとすると、受け取る素振りも見せず虚ろな瞳のままで再び大きく口だけ開く。呆けているとはいえ、その姿に横着さを感じたボクはボクで「女王様か。」と、開いた祖母の口の中にわざと上下逆に入れ歯を入れる。
もちろんピッタリ嵌まるわけもなく、安定しないその状態にしばらく自身で口をモゴモゴさせてなんとか嵌めようと懸命さを見せていたものの、いよいよ苛立ったのか、「逆ちや! アンタ、入れ歯もまともに入れれんかね!」と、口の中をフガフガさせた状態ながら強い口調で眼光鋭くボクに文句を言うと同時に、ふたつの入れ歯をペロンと吐き出してみせ、またもや彼女の頭の回路が繋がったきっかけにボクはボクで大笑いした、そんな祖母との最期の方の時間。

この戯れ言日記のようなモノをサボっている間に、桜もすっかり散り、気づけば祖母の数年目の命日も過ぎていたので、今日は自宅のリビングの端でこちらにピースサインを送るその祖母との時間を思い出してみた木曜日____。

日記